講談社まんが学術文庫 カミュ『異邦人』解説
2月13日に講談社からまんが学術文庫 カミュ『異邦人』が刊行されました。
この仕事はマンガ家人生初の描き下ろし単行本で、ネーム、下描き、ペン入れに半年以上かかりました。
タイトル通り、カミュの『異邦人』をマンガ化したものです。これまでにも『異邦人』はマンガや映画などになっているようですが、高校時代から何度も読み返してきたこの愛読書を、私にしかできない表現でマンガにしてみようと思い、全力を注いだつもりです。
ブログ左上にアマゾンのリンクを張っておきましたので、興味のある方はぜひポチってくださいませ。
そのアマゾンのレビューに「後書きから読んだ方がいいかもしれません、作者の挑戦に優しくなれますから。」と書いてくださった人がおられたので、今回、後書きだけブログに載せてみます。
読んでもけっしてストーリーのネタバレにはなりませんが、先に作者の制作意図を知ってしまいたくない人は、ぜひマンガの方から先にお読みください。
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まんが学術文庫 カミュ『異邦人』後書き
我々人間は、社会的存在なのか、個人的存在なのか。基本は個人だろう。個人が集まって社会を作っている。自分という個人がいるかどうかは、デカルトの「我思う、故に我在り」で確認できる。これを読んで、あなたが何かを思うなら、あなたは存在する一人の我である。
しかし、いつの間にか、我々は社会に安住し、下手をすると、その構造の中に埋没していく。社会通念、宗教などによりかかって、皆と同じ方向を向いて生きる。その方が他者たちと話が通じやすいし、平和に暮らせるからだ。
だが、無流想はとことん我のみを起点にして他者たちと関係する。まるで、目や口や耳などの穴があいている身体という箱の中に入って一方的に社会を観ているかのように。
カミュはそれを表現したくて『異邦人』では文章描写を主人公ムルソーの一人称に徹したのだと思う。私はそこをマンガで伝えたくて、今回、全てのコマを無流想の目、耳、口、脳ミソの形にした。逆に、『異邦人』を普通の俯瞰描写でマンガにしたら、原作の趣旨を全否定してしまうことになるだろう。
描いていてつくづく思ったのは、一人称で生きるのは楽じゃない、ということ。自由な個人になるのは一見、伸び伸びと気楽に生きられるような気がするが、それは社会に守られてのことであって、本当に個として社会と対峙したら、悪い流れにはまった時には、どんどん自分が社会から疎外され、最後は完全に押し出されてしまいかねない。社会は、箱の中にいるその人自身など見ようとしてはくれない。
無流想はまさにそのように社会から断絶されたわけだが、彼は最後の最期まで我発(ルビ。われはつ)の一人称を貫いた。いかにも不器用で、こんな生き方、誰にもお勧めできないが、我という起点がいつの間にか社会の構造、所属する組織の構造、他者との人間関係の構造に埋没することも避けたいわけで、無流想の生き様をどう活かすかは読み手次第だろう。
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